ワタシの先祖のお話です。塩竃・浦戸の寒風沢と密接に関係しています。ここ最近はこの本たちを読むことがほとんどです。夜、布団に入ってから掻い摘んで読むのですが、眠くて顔面に本を落としたこともあって、最近は日中に読んで手帳に書き写しています。
先祖が寒風沢にやってきた400年前はそう遠くはない昔のことで、150年前の戊辰戦争は最近に感じてしまうのです。縄文時代が好きな人は江戸時代はつい最近に感じるらしいです。
松島湾で先祖が行ってきた仕事を知るたびに「私も先祖のように生きたい!」と思うことが多くなりました。先祖が働いた松島湾に住んでいることもありますし、ヨガの生徒さんはじめ、友人、知人、仕事関係、家族なども応援してもらえることがすごく嬉しいのです。
この画像は長南氏の研究から抜粋した江戸時代、先祖が乗っていた千石船『神明丸』です。先祖は江戸時代に寒風沢港を築港し、廻船問屋業(海運業)を営んでおりました。先日、寒風沢をガイドした留学生に「海鮮問屋」と勘違いされて、言い回しってすごく大事だなぁ~と気づかせてもらいました。ガイドはわかりやすい言葉じゃないといけませんね💦この船で伊達藩の貢米をお江戸に運んでおりました。
江戸時代、寒風沢港は外海に臨む港として江戸に運ぶ貢米の積み替え港でした。画像は塩竃市教育委員会で発行している中学校の歴史の副読本、塩竃の歴史です。この本の『塩竃を築いた人々』という項目の1番最初に先祖の長南和泉守さんが載っています。海運業のほかに松島湾に松を植える栽松事業も行っていました。その当時の瑞巌寺の雲居国師から相談を受け、塩に強い黒松を静岡から取り寄せ手植えしたそうです。先祖は雲居さんにもよくしてもらっていたのだと想像します。法名も雲居国師から頂いています。
これはざっくりとした方の家系図です。戊辰戦争時、浦役人をしていた十一代目清八郎さんが私の高祖父(祖父の祖父)の兄にあたります。ちなみに浦役人の浦とは港のことで、港内外の秩序を取り締まり、海難に当たっては救助を指揮するなど港湾関係の役所のような仕事を司っていました。戊辰戦争時は旧幕府軍の榎本さんや土方さんたちご一行を浦戸に分宿させお世話に当たりました。参考文献・ https://www.city.shiogama.miyagi.jp/urato/asobu/rekishi/boshin/urato.html
この錦絵は1185年、壇の浦で義経公に同行した長南忠春さんです。こちらも遠い遠いご先祖さまです。長南一族は平安末期から約500年間続いた武士一族で、壇ノ浦から約400年後に和泉守さんが生まれました。
これが和泉守さんの出身地の千葉県長生郡長南町にある長福寿寺で長南一族の菩提寺です。400年前、千葉を追われる時にきっとここに立ち寄ったのではないでしょうか!必ずこの地に戻ると約束し、伊達政宗公を頼って潮に乗り浦戸を目指したのだと思います。
そんな先祖のことを書いたブログはこちらです。
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